お寺のゆらい

筑波山

慶龍寺の本尊『子育出世正観世音菩薩』は、大同二年(八〇七)、京都・東寺において小児の成長安全を祈願し、弘法大師が手ずから彫ったと伝えられる秘仏です。その後、文明四年(一四七二)に仁和寺の随弟法師が小田原に観音寺を建て、本尊仏としてまつりました。多くの人々からその御利益を称えられ、徳川家康が深くこの本尊を信仰して天下をとったことから、「出世」の尊称が加わり、「子育出世観音」と崇められるようになったのです。

 

やがて元和元年(一六一五)、観音寺住職の慶龍上人の夢枕に、七晩にもわたって本尊が現れ、「吾これより東の方に行き弘く智方便を施らし小児を病難より救わん速やかに移すべし」とのおつげを受けました。

そのため上人は本尊を笈におさめて旅に出ましたが、筑波山麓にさしかかったとき、長雨続きで桜川がはんらし渡ることができなくなってしまいた。困っていると一人の童子が小舟に乗ってやってきて、上人を向こう岸へと渡してくれたのです。すると、その童子は煙のように消え、本尊の御影が川の上に現れました。

上人は「本尊が川を渡らせてくださった」と感謝して経を読んだ後、再び出発しようとしました。ところが、笈が重くて動くことができません。そこで「この地こそ本尊の望む霊地に違いない」と村人に伝えました。すぐに草庵を設けたところ、そのころ村で流行っていた小児の悪い病気が治まり、その御利益を伝え聞いた人々が集まるようになりました。

そして元和四年(一六一八)に堂宇を建て、慶龍上人の名にちなみ『慶龍寺』と称されたのです。

 

本尊は「泉のお観音様」と多くの人々に慕われ、参拝する人があとを断たないほどでした。土浦藩主の土屋正直候は寺録を献し、貞亨四年(一六八七)には表門を寄進。その門は今も寺に建ち、参拝客を迎え続けています。
現在では、本尊の御霊験は関東一円へと広がり、子供を観音様に七歳まであずけ、仏と縁を結んで見守ってもらう「資子(とりこ)祈願」など、子供の健やかな成長を願う「虫封じ祈願」など、年間に何万人もの人々が慶龍寺を訪れています。

 

時は明治時代。
44世の古幡乘善師は、長野県安曇野にある万願寺の御住職でした。「常陸泉の慶龍寺を再建せよ。」と命ぜられこの地に参られました。

何一つ無くした御寺の再興は大変でした。
潰れた原因は、地元の人々がお寺で博打を楽しみ、かけるもの持たないので、お寺の田畑山林、調度品、布団やら台所用品等全てかけた挙句、大負けしてしまったらしいです。
当時の住職は、それに参加して梅毒まで罹患して、そして追放されました。

再建の努力。
御本尊のお観音様の縁起にヒントを貰い、子供達の病避け、蟲除けの祈願所としての機能を編み出し工夫を凝らしました。
それらが実り、大正9年には修行道場と宿泊施設の為の参楼場の新築をしました。
また、戦前には8人お弟さんを養育、教育して、大学まで出すことが出来ました。
あちこちのお寺様の立て直しながら、資金繰りにも手を貸したようです。
今は、その苦労を蔑ろにはしたくありません。

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